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title: 『差別感情の哲学』不快・嫌悪
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created_time: 2026-01-06T14:17:00.000Z
last_edited_time: 2026-01-06T14:22:00.000Z
category: Diary
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  - 哲学
  - 読書
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2025年末に読み終わって読後のダメージがまだまだ引きずっているのだけど、とりあえずそのことを書くだけでもしておかないと次の本に進めないので書く。自分がいかに差別感情に対して無頓着で、欺瞞的であり、幼い精神であるかということを次々に暴露され、非常に読みながら居心地が悪いのであるが、読むのをやめることはできなかった。

## 「差別はない」というタテマエのもとにおける差別

> 制度上の差別が撤廃されたのち、われわれの前に立ちはだかるのは、こうした制度外差別であり、それを広く「心における差別」あるいは「差別感情に基づく差別」と呼んでおこう。ここには、考えようによって、制度上の差別以上の悪が横行している。それは、欺瞞という悪、狡さという悪である。「いじめはない」と居直りながら、いじめを黙認している悪であり、結果としていじめに加担している悪である。

中島が本書で掘り下げていくのは、この「心における差別」である。われわれのどのような感情が差別を生むかということの分析がこの本の主題だ。

> 現代日本では、制度上の差別はにわかに減少しつつある。その場合、「心における差別」が差別における最大の問題として浮上してくる。…「心における差別」を全廃することができるか？そもそも全廃すべきなのか？それにどう向き合うべきか、本書のテーマを凝縮すればこういう問いになる。

## 不快と差別

差別問題を考えるうえで1つの解答とされるのは、「（たとえ他人に対して不快を感じているとしても）あたかも不快を感じていないかのように振る舞うべきである」というものである。だが中島はこれでいいわけがないと言う。

> これでいいことはない。なぜなら、多くの人は、他人から自分が「不快である」と明言されたくなく、それを明瞭に示す振舞いもされたくなく、さらに──これがポイントである──他人に不快に**感じられたくさえない**のであるから。

であればどうすればいいのか。極端に言えば誰に対してもいかなるときも不快な感情をもってはならないということになるが、そんなことは無理だ。

> 一般に、特定の個人に対していかなる場合も不快な感情をもってはならない、とは言えないであろう。それは、ここで求められている最終解答ではない。むしろ、問題は、われわれは他人への不快の感情をいかなる場合に無際限に肯定してはならないのか、というところにある。

ここから中島は差別感情のスペクトルについて分析を展開する。まず最初は、他人に対する不快な感情についてどこからどこまでを差別感情とするかという尺度の話だ。

> 一つの考えがある。すなわち、差別に基づいた感情、ある社会的劣位グループの構成員を**その構成員であるがゆえに一律に**不快に思うという感情のみを差別感情とする見解である。

だが、誰かを不快に思う原因をそこまで明確に切り分けられるだろうか。

> 現実には彼が「ユダヤ人であるがゆえに差別する」という感情と彼が「ユダヤ人であることを一要因として差別する」という感情との境界設定はきわめて難しい。

それゆえに、「お前は差別主義者だ」と誹りを受けることを避けるために、社会的に「公認された被差別者」に対しては誰もが感情を厳しく統制することになる。

> 実際このことをみな知っているゆえに、日々不快を好きなように放出している人でも「公認された被差別者」に対してだけは、不快を表出しないように賢く振舞っている。なぜなら、そう振舞わないと身の危険を招くからであり、社会的に葬り去られるからである。…現代日本においては、誰もアイヌや在日韓国朝鮮人に不快を感じてはならない、現代アメリカにおいては、誰も黒人やゲイを不快に思ってはならない。

この状況を中島は欺瞞的態度であるという。

> 本来ある個人Ｓが生理的に不快であっても、たまたまＳが在日韓国人であることを知った瞬間にそう語れなくなり、そう語らず、あたかもＳがまったく不快でないかのように振舞うであろう。ここには、欺瞞的態度がもたらす臭気が漂う。この臭気は消すことができるのであろうか？

ここから本書における根底の問題が明かされる。社会における正しさと、自身の感情に対する誠実性との間のダブルバインドは、どのように解決できるのだろうか。

> むしろ、今日の問題状況は、「差別をしてはならない」という社会的コンセンサスと自分は差別感情を抱いているという内的現実とのズレである。少なからぬ人が、このズレに悩んでいる。あまりにも社会的コンセンサスに合致した行為をすると、自分の誠実性が叫び声を上げる。あまりにも自分の誠実性を守ろうとすると、社会的に排除される。ここには、二つの領域を画然と分けている高い壁がそびえている。

## 嫌悪と差別

嫌悪感情の分析の中で、中島は「正常だと思われたい欲望」、「異常だと思われたくない欲望」が嫌悪感情と密接に関係するという。

> われわれは他人の面前でたえず自分が「正常である」証拠を示すことによって、異常人物、危険人物ではないというサインを送っている。同じことであるが、他人にも同じように「正常である」サインを自分に送ってくれることを期待する。こうした欲望はわれわれのきわめて深いところに達した了解であるので、意図的でありながら意図的であるという自覚はない。計算をしていながら、計算しているという自覚がない。

このような緊張状態の中に置かれた〈市民的自己〉は、自分を正常な側に置き続けるために、異常な側にいる者を見つけ、嫌悪する。こうして自分が安全な側にいる二項対立の世界を作ることで安心しようとする。

> 〈市民的自己〉は一歩家を出るや否や、自ら膨大な数の補修作業を重ね、他人にもそれを要求している。そして、ちょっとでもそれができない人、自然でない人を見つけるや、「まともでない人」という烙印を押してしまう。例えば、電車の中で歌を歌い続ける男、へらへら笑い続ける女に対して周囲の乗客は一般に補修作業を求めない。なぜなら、それが期待できないことを察知するからである。そして、その代わりに、逸脱行為をする者（Ｋ） 以外のすべての乗客を「正常者」として、その反対側に「異常者」としてのＫを配置するという二項対立の世界を築き上げる。こうすることによって、〈市民的自己〉は一時的に訪れた不安を解消するのである。

中島はこの構図が学校における「いじめ」にも見て取れるという。この分析には衝撃を受けた。

> そこには、「平等思想」が蔓延しており、学力や体力や人間的魅力など歴然と差異は実在するのに、教師によって成員自身によって日々その差異を消す努力がなされる。子供たちは、こういう噓で固めた濃密な空間において窒息しそうなのだ。成員はこのものすごい圧力から抜け出たいが、「平等思想」自体を否定することも、現実の差異を否定することもできない。そこで、子供たちは両者を保ったまま気圧を下げることのできる「風穴」を掘ろうとするのだ。

この「風穴」こそがいじめの対象となるスケープゴート、生け贄である。誰が敵であるか、誰に嫌悪を向けるかということの秩序が生まれる。

> こうした再編成を赤坂は「共同性に違背することの恐怖が共同性そのものを成立させているという構図」と言っている。集団にとっての敵がはっきりしているあいだは、その集団の成員間の「共同性」は安泰である。だから、集団の安泰を企図する政治家は、共産主義者とかユダヤ人という象徴的敵を確保することにやっきであった。それが、集団のそとにうまく見いだせないとき、各成員は集団のうちに「生け贄」を見いだすというわけである。

## 差別感情としての嫌悪が強い人

> 以上の考察を踏まえて、差別感情としての嫌悪が強い人の類型が見えてくる。それは、与えられた状況に鈍感な人ではなくて、むしろきわめて敏感な人であろう。その中で、「正常だと思われたい欲望」を強くもち、「儀礼的無関心」を装いながらも自分の周囲に異常な人を 嗅ぎつけ、括り出し、告発する人である。

しかし差別感情としての嫌悪には他の類型もある。これこそまさに昨今のポリティカル・コレクトネスの文脈で現れるものだろう。

> しかし、ベクトルは逆のように見えながら、同じように差別感情の強い人がいる。彼は、社会的弱者に嫌悪感を抱く人以上に「正常だと思われたい欲望」を強くもち、さらに自他に対する道徳的要求の高い人であり、それゆえ他人の不（非）道徳を異様に攻撃的に追及する人である。彼は、社会的弱者に差別感情を抱く人に対して猛烈な怒りを覚えている。社会的弱者に関してちょっとでも軽蔑的あるいは配慮のない発言をすると、 凄まじい怒りを爆発させる。庶民感覚のわからない首相を嘲笑 し、女性を「産む機械」と発言した閣僚や「日本は単一民族国家」と発言した閣僚に直ちに辞職を迫るのである。

中島はこうした人々にも厳しい批判を向ける。それはその自己批判精神の欠如に対してである。

> 自己批判精神を欠いている人は、時代の風潮に乗った「正義」の名のもとに思う存分その侵害者を弾圧する。「民族間の平等」と「男女間の平等」という現代版の正義を振りかざして、強力な後ろ盾のもとに反対者を摘発し血祭りに上げる。こういう態度は、魔女を一掃することを正しいと信じていた人々、ユダヤ人を全滅させることこそ正義だと確信していた人々とじつのところ「心情構造」を共有しているのである。 われわれは、これまで「正義」の名のもとに壮大な悪がなされてきたことを知らなければならない。「正義」の名のもとに行われる非難・迫害・排除が一番過酷であったことを知らなければならない。

> 差別感情の強い人とは、一般的に人を嫌うことの強い人というより、 社会的感情にそって人を嫌うことの強い人と言うべきであろう。また、観念的に人を嫌うことの強い人でもあり、自分のある人に対する嫌悪感について自己批判精神をもたない人でもあろう。 

「正常だと思われたい欲望」「異常だと思われたくない欲望」、つまり「嫌われたくない欲望」こそが差別感情としての嫌悪の源泉にある。ならば、それに立ち向かうために必要なのは「嫌われる」ということへの恐れに抵抗することである。

> 他人に嫌われたくないという願望が極端に強い人は、反省すべきであろう。それは何の美徳でもなく、ただ人間として幼いのであり、むしろ社会に果てしなく害毒を流す。人間とは理不尽に他人を嫌うものであり、それを呑み込まねば生きていけない。…われわれは他人から（理不尽に） 嫌われることに対する抵抗力を身につけねばならず、そうした抵抗力のある者だけが、現実的に差別感情に立ち向かうことができるのである。

## etc…

いったんここまでとする。ほぼスクラップブックみたいになっているが、あまりにも刺さる文章が多すぎる。

> 差別感情に真剣に向き合うとは、「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、抉り出す不断の努力をすることなのだ。こんな苦しい思いまでして生きていたくない、むしろすべてを投げ打って死にたいと願うほど、つまり差別に苦しむ人と「対等の位置」に達するまで、自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けることなのだ。